各地を旅した裸の大将・山下清の生涯
貼り絵を始めたきっかけとは?
<3月10日生まれ>
山下清 1922〜1971
画家
東京市浅草区田中町(現在の東京都台東区日本堤)で生まれました。幼い時には災難が続き、大正12年の関東大震災では家が全焼。そして、3歳の時には重い消化不良を起こし、3ヶ月間、高熱にうなされ歩けなくなる程の重態となりました。運良く一命は取りとめたのですが、これがきっかけで軽い言語障害となってしまいます。
昭和3年、浅草の石浜小学校に入学します。彼は、この頃から字を書くよりも絵を描くほうが好きだったそうです。しかし、10歳の頃から知的障害が目立ち始め、そのために周囲の子供達からいじめられるようになります。更に、父が病死してしまいました。
そして彼は、12歳の時に千葉県の児童養護施設「八幡学園」に入園することになります。ここで彼は、学園教育の一環として行われていた「ちぎり絵」との出会うことになります。彼は、この「ちぎり絵」に熱中し、独自の技法による「貼り絵」に発展させていきました。そして、注目を集め出した彼の「貼り絵」は各地で展覧会が開催されるようになり、彼は一躍有名人になっていったのでした。
ところが自由を求め続けていた彼は、18歳のときに風呂敷包み1つ持って八幡学園から姿を消して放浪の旅に出てゆきます。北は北海道から南は九州までを旅しながら。年に一度の割合で学園に戻り、放浪の旅での印象的な風景を貼絵にして、画家や文学者から絶賛される数々の傑作を制作していました。
しかし昭和28年、彼が31歳の時、アメリカのグラフ誌「ライフ」の記者が放浪中の彼を捜し始め、新聞が彼の捜索に加わり、翌年1月に発見され、それによって放浪生活が終わることになります。
そして、昭和31年には東京の大丸百貨店で「山下清作品展」を開催、入場者数は1ヶ月で80万人を超えたそうです。その他にも全国で作品展開催し、観客動員数は、なんと800万人を越したといわれています。
彼はその後、式場隆三郎と共にフランス、ドイツ、イギリスなどヨーロッパ一周スケッチ旅行に出かけ、帰国後は全国巡回展を開催したり、ヨーロッパでの思い出を貼り絵にしたりしていましたが、昭和46年7月12日、突然の脳出血で亡くなりました。49歳でした。
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彼が「八幡学園」をでた理由の1つには、翌々年にひかえた徴兵検査があったそうです。しかし、21歳になって徴兵検査を免れたと思った彼が、母のところへ行くと、問答無用で徴兵検査場へ連れて行かれてしまいました。しかし結果は「丁種不合格」。はれて徴兵免除となった彼は、再び放浪の旅へ出発したそうです。
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