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江戸時代の日本で活躍した浮世絵師・喜多川歌麿

美人画の大家といえば、この人物

喜多川 歌麿(きたがわ うたまろ)
宝暦3年(1753年)ー 文化3年9月20日(1806年10月31日
江戸時代の日本で活躍した浮世絵師の代表的な一人。

姓は北川、幼名は市太郎、のち、勇助と改め、名は信美。
初号は豊章、狂歌名は筆の綾丸。

海外でもよく知られる浮世絵師として、葛飾北斎と並び称される。

繊細で優麗な描線を特徴とし、
さまざまな姿態、表情の女性美を追求した美人画の大家である。

生地は、武蔵国入間郡川越宿界隈(現・埼玉県川越市)とされるが、
江戸市中、あるいは京、栃木・下野であったともいわれる。

鳥山石燕のもとで学び、細判の役者絵や絵本を制作。
版元の蔦屋重三郎の援助を得て抜群の才を発揮した。

寛政3年(1791年)の頃から描き始めた「美人大首絵」で人気を博した。

歌麿はそれまで全身を描かれていた美人画の体を省き、
顔を中心とする構図を考案した。

これにより、美人画の人物の顔の表情や内面を詳細に描くことが可能になった。

歌麿は遊女、花魁、さらに茶屋の娘など無名の女性ばかりを作品の対象としたが、歌麿の浮世絵によってモデルの名前はたちまち江戸中に広まるなどし、歌麿の浮世絵は一つのメディアへと育っていった。

これに対して江戸幕府はたびたび制限を加えたが、
歌麿は判じ絵などで対抗し、美人画を書き続けた。

豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵を描いたことで幕府の逆鱗に触れたときは、手鎖の処分を受けている。

当時、豊臣秀吉を扱うことは禁忌であり、また、北の政所や淀殿、その他側室に囲まれて花見酒にふける秀吉の姿が、当代の将軍・徳川家斉を揶揄したものであったともされている。