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人々を飢えから救った“サツマイモ先生”
青木昆陽の人生

全国にサツマイモを広げた人物って?

<5月12日生まれ>
青木昆陽(あおき こんよう)1698〜1769
江戸時代の蘭学者・儒学者

青木昆陽は、江戸日本橋の魚屋の子として生まれました。幼いときより学問を志し、京都の伊藤東涯(いとう とうがい)に儒学を学びます。27歳のときに江戸で塾を開き、やがて町奉行・大岡忠相にみとめられました。

当時は、庶民・農民にとって、非常に苦しい時代でした。
大商人による米相場の操作、たび重なる飢饉(ききん)や蝗害(こうがい:バッタ類が大量発生し、作物を食べつくしてしまう)が、民衆による米問屋襲撃や農民一揆などの事件を引き起こしていました。
彼は、この世の中の窮状を少しでも変えようと、「蕃薯(ばんしょ)考」を書いて将軍・徳川吉宗に飢饉対策用に甘藷(サツマイモ)の栽培を進言しました。

彼は苦労の末、サツマイモ栽培を成功させ、その功を認められて将軍から直接ご褒美をたまわっています。サツマイモの栽培に取り組んでから4年後のことでした。
サツマイモはその後全国に広がり、飢饉に苦しむ農民たちを救っていきます。彼は、その功績によって「甘藷(かんしょ)先生」とよばれるようになりました。

昆陽は、のちに吉宗の命によってオランダ通詞からオランダ語を学び『和蘭話訳』『和蘭文字略考』を著しました。彼の蘭学の知識は門人の前野良沢に継承され、蘭学がさかんになる一因となり、やがて『解体新書』の翻訳となって結実しました。

彼は晩年、富士山を望む景勝地の目黒を好みました。当時の住職であった須田一族の厚い信頼を得て、大鳥神社裏に別荘を構えて隠居所とし、明和6年10月12日に亡くなりました。
生前自ら「甘藷先生墓」と刻んで遺言として、「死後は目黒に葬り、父と娘も一緒に改葬して欲しい」と残していたため、今でも目黒不動の杜の一角に彼の墓はあります。

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いつの頃からか、昆陽は「芋神さま」として敬われるようになりました。そして「芋神さま」をまつる昆陽神社が建立されるに至りました。
また、幕張町4丁目には、甘藷試作地の地碑が建てられています。全国の何万人という人々を飢餓から救ったサツマイモが、最初に根づいた土地です。

また、彼の墓がある目黒不動には、甘藷組合が明治44年10月に建てた「昆陽青木先生之碑」や芝・麻布の甘藷組合が建てた「甘藷講碑」があります。
毎年10月28日の目黒不動の緑日には、青木昆陽の遺徳を偲んで「甘藷まつり」が催されているそうです。