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情報化社会で見直したい、子どもの「学び」

感動や好奇心が、子どもを育てる

小学校を卒業して、もう30年近く経ちますが、今でもよく覚えていることがあります。

当時、自分のおじいちゃんが住んでいた埼玉県杉戸町に遊びに行ったときのことでした。電車に乗っていると窓から、『元荒川』という看板と大きな河川が見えたのです。さらに、杉戸に着き、駅前を歩くと、『古利根川』というこれまた大きなゆったりとした流れがありました。荒川や、利根川に「元」「古」がついている。わたしはものすごく不思議に思いました。ですが、その一文字から、もしかすると、何らかの理由で、川の流れが変わったのではないか、と子どもながらに想像しました。

学校に行くと、早速先生に尋ねました。「そうだよ、しかも人が流れを変えたんだよ」。わたしはびっくりしました。もっと話が聞きたい、と思いました。しかし、話しベタだったことや、先生の周りがごちゃごちゃしていたこともあり、それ以上詳しいことが聞けなかったのです。わたしも勇気がなく、それ以上、突き詰めることはありませんでした。

ところが、そこで終わりませんでした。日に日に気になるのです。その当時のわたしが、つりが好きだったこと、あの川が大きく雄大に見えたことのせいかもしれません。

そんなある日、偶然見かけた本に、利根川と荒川の流れを変えた、という記載を見つけたのです。わたしはくいいるように読みました。洪水、水運、防御という配慮から、利根川の流れを東へと変えたのでした。

人間の素晴らしさ、英知。昔の人の情熱、土木技術の高さ。子ども心に感動しました。

本を見つけた偶然は、決して偶然ではありません。無意識は、ずっとずっと、その疑問の答えを探しもとめていたものでした。人から教わったもの、聞きかじりのものを、わたしたちの無意識は決してリサーチしません。

感動があるもの、
好奇心をくすぐるもの、
体験や体感をともなうもの。

自分の内側から湧き出たものにだけ反応するのです。偶然という名を借りて、学ぶ機会を与えてくれるのです。

わたしたちは子どもたちに教えすぎています。あきらかに多くの情報と知恵と最短距離を通るノウハウを与えすぎています。教えすぎると、わたしたちは、考えることをやめてしまいます。同時に、感動と体験、行動力、自分固有の「視点」「感動のツボ」を育てる機会を逸してしまいます。

「メダカのがっこう」の理事長、中村陽子さんは、高校の頃の『光合成』の話に感動し、現在の道を進んだそうです。そこからイメージがぐんぐん広がり、植物に対する畏敬の念が生まれたといいます。そこにいる誰もがこの話に感動したわけではないでしょう。その差はなぜ生じたのでしょう。自分の視点が育っていたからです。教わりすぎていない人だけが、自分の視点にハマったテーマに出会ったとき、その話を起点にイメージを膨らませることができるのです。