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「関が原」もう一つの天下取り

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戦いのウラで、天下取りを狙っていた人物

◆有能すぎた官兵衛
官兵衛は非常に有能で、頭が切れる人物だったといわれています。『頭が切れすぎた』と言うべきでしょう。日本の近代に同じような人物を探すと、石原莞爾かも知れません。石原莞爾は、満州事変を起こした人物として有名ですが、軍中央の東條英機らと衝突して、退役します。

官兵衛は、秀吉のために多くの手柄をたてましたが、秀吉は豊後・中津(現在の大分県中津市)に12万石を与えたのみでした。

◆今こそ、天下取り!

さて、家康と三成が武力でぶつかるという報せを聞いた官兵衛は、東軍には属しましたが「決着がつくまで長期間かかる。双方とも消耗して、共倒れになるだろう」と考えたといわれています。
「その時に、自分が乗り出して天下を取る」という、官兵衛らしい遠大な計画を描いていたとも伝えられています。官兵衛は自力で軍を編成し、近隣の西軍の大名の城を攻撃し、占領していきました。

もし、官兵衛が『天下取り』の野望を持っていたとすれば、それをつぶしたのは、皮肉にも息子・長政でした。関が原での東軍勝利の最大の要因は、小早川秀秋の裏切りです。そのほかには、黒田長政の奮戦でした。

◆親の心、子知らず?

関ヶ原の戦いの後、中津に戻った長政は父(その時は「如水」でした)に報告し、その中で「家康殿は私の手を取って功労を褒めてくれました」と自慢しました。それを聞いた父・如水は「家康殿は、お前のどちらの手を取ったか」と聞きました。「左の手でした」と答えると、父は「その時、お前の利き腕である右手は何をしていたのか」と詰問しました。
長政は、これを聞いて絶句しました。つまり、父は息子に「なぜ、空いている右手で家康を殺さなかったのか」と言いたかったのです。


まるで『講釈師、見てきたような嘘をつき』ですが、如水が天下をねらっていたかどうかは、わかりません。事実であれば、このようなエピソードが世間に広まることは考えられません。
陰謀家の父と対比して、息子の忠誠を強調するねらいがあったのかも知れません。

◆2つの『天下分け目の戦い』の歴史的意義

天王山の戦いの勝利により、秀吉は織田政権の後継者として、天下人への道が開けました。家康は、関が原の戦いの勝利により、豊臣政権の後継者としての地位を確立しました。これは、豊臣政権の終焉の始まりとなりました。2つの『天下分け目の戦い』は、ある武士政権の誕生と終わりの序曲となったのです。

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