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ミッキーの生みの親、ウォルト・ディズニーの生涯とは?

夢を生み出し続けた人生

<12月5日生まれ>
ウォルト・ディズニー(本名 Walter Elias Disney) 1901〜1967
アニメーション映画制作者

ウォルト・ディズニーは、イリノイ州シカゴに生まれました。彼は4男で、下から2番目の子でした。
彼は、幼少の頃から絵を描くのを得意とし、年齢とともに才能を発揮しました。

1918年、冒険への欲求と父との不和が原因で、彼は赤十字に志願しました。第一次大戦は終わったばかりでしたが、彼は占領軍と共にフランスに送られました。
そこで自分の絵が仲間の兵たちの人気を集めたため、帰国したときに彼は画家、または漫画家になろうと決意していました。

そして、広告媒体用の漫画家の仕事をはじめ、1920年には最初のオリジナルアニメーション動画を創作し、世に送り出しました。
その後、兄、ロイ・ディズニーと集めた資金で小さな制作室を作り活動をはじめました。

そのような状況のなかでミッキーマウスは生み出され、1928年11月18日封切られた世界初の完全トーキー映画『蒸気船ウィリー』で、スクリーンデビューを果たしました。
当時ウォルトは、まだ26歳でした。この『蒸気船ウィリー』の成功によりミッキーマウスの人気は急上昇し、彼のトーキー映画への執念は報われたのでした。

その後も、彼のアニメーション制作への熱意はとどまることなく、画期的長編動画映画『白雪姫』、引き続き『ピノキオ』『バンビ』『ファンタジア』などの長編作を発表。漫画映画の第一人者となりました。
また、自然科学映画『砂漠は生きている』や劇映画『海底二万マイル』などを製作し、32ものアカデミー賞も手に入れました。

1955年、ついに彼は魔法の王国ともいうべきディズニーランドを1700万ドルという巨額な資金を投じて建設しました。
その後も新たなテーマパーク、ウォルト・ディズニー・ワールドのプランを指揮し、また、カリフォルニアの芸術学校の創立にも力を注ぎました。

しかし、1966年11月、息切れがひどくなり、足も激痛によりほとんど動かすことができなくなったため、病院に入院して検査を受けることになりました。
検査の結果、なんと左肺が癌におかされていることがわかったのです。

翌年の12月15日午前9時35分、急性循環不全のため、彼は亡くなりました。65歳でした。

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「夢を現実にするのは人である」

ディズニーランド開園前の運営を外部へ委託するという意見が出たときの言葉。

ここは、今までの遊園地なんかとは違う。ディズニーランドなんだ。
だから、我々の手で運営するのだ。必要なのは熱意であり、一生懸命で意欲的に様々なことを学ぼうとする人だ。
間違いをするかもしれないが、それを糧にディズニーランドらしいやり方を考えていきたい。

世界一すばらしい場所を企画、創造し、建設することは可能だが、その夢を現実のものとするためには人が必要である。