明治・大正を生きた、最後の将軍 徳川慶喜
江戸無血開城を実現した立役者
<9月29日生まれ>
徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)1837〜1913
第15代将軍(徳川幕府最後の将軍)
水戸藩9代藩主・徳川斉昭公と有栖川宮王女・登美宮吉子の七男として、江戸小石川の水戸藩邸で生まれました。その後、父の教育方針により水戸で育てられ、5歳の時から弘道館で学問を修め、11歳の時に御三卿のひとつである一橋家の養子となりました。
改革派によって14代将軍候補の1人に推されましたが、保守派の井伊直弼らが推す紀州徳川家の慶福(よしとみ・後の家茂)に破れ、将軍職には慶福がつくことになりました。
その後、井伊直弼によって行われた安政の大獄によって、慶喜は条約反対派・一橋派の大名たちとともに処分を受け、隠居謹慎の命を受けることになってしまいます。
しかし、井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺されると許されて将軍後見役となり、病弱であった家茂が21歳の若さで大坂城で亡くなると、15代将軍となりました。
将軍に就任してからは、西洋の軍制や政治組織を取り入れ、幕府権力の強化に向かって討幕派も驚くほどの政治改革を次々と打ち出しましたが、時すでに遅く幕府の権威は失墜し、将軍の権力をもってしても体制を維持することは困難になっていました。
さらに薩長同盟が公表され、佐幕(さばく・幕府を補佐する)派であった孝明天皇も死去してしまった状況で、幼帝を擁した薩長に討幕の勅命が下るのは時間の問題となってしまいました。
さまざまな政治的思惑が交錯するなか、彼は困難を乗り越えて1867年に大政奉還を行いました。その後、薩長の挑発に乗った旧幕府側は、慶喜を擁して薩摩・長州軍と戦いましたが敗れ(鳥羽伏見の戦い)、彼はこれ以上の戦いを避けるために海路江戸に帰還、周囲の再挙の勧めを拒否して謹慎しました。
彼のこの行動は、幕府と薩長同盟軍との全面戦争による内戦を防いだとも言われ、江戸無血開城もこの行動あっての成功とも言えます。
維新後は、写真、製陶、釣り、狩猟、囲碁等の趣味の世界に没頭して暮らしていましたが、勝海舟の尽力もあって徐々に名誉を回復していきました。そして明治30年には東京巣鴨に居を移し、翌年には明治天皇・皇后に謁見(えっけん)しました。
その後、彼は公爵を受爵して新たに一家を成すことを許され、名実ともにその名誉を回復し、大正2年11月22日に亡くなりました。77歳でした。
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彼は幼い時、江戸にいると華美な風俗が心にしみつくということで、水戸で厳しく育てられました。
水戸でのしつけは非常に厳しかったそうで、衣服や布団は木綿か麻で、決して絹は使わず、食事は一汁一菜、魚など動物性たんぱく質が付くのは月に3日だけであったそうです。
また、いたずらや課業怠慢への処罰では、お灸をすえられ、さらに重くなると、なんと座敷牢に入れられたそうです。
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安政の大獄
1858(安政5)〜1859年に江戸幕府が尊王攘夷運動に加えたきびしい弾圧事件のことです。当時、日米修好通商条約の調印と将軍・徳川家定の後継者をめぐる尊王攘夷派の反幕府運動に対して、大老の井伊直弼が強権を発動し、公家・大名や志士など100余名を罰したもので、徳川斉昭(なりあき・前水戸藩主)は謹慎させられ、吉田松陰・橋本左内ら8名が死刑となりました。井伊直弼は1860年、この事件で恨みをかい桜田門外の変で殺害されました。
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