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「関が原」もう一つの天下取り

2つの『天下分け目の戦い』とは?

◆わずか2時間、天王山の戦い

『天下分け目の戦い』の例として「天王山の戦い(山崎の戦いとも呼ぶ)」と「関が原の戦い」があげられます。いずれの戦いも『天下分け目の戦い』という言葉のわりには、わずか1日で終わってしまいました。

天王山の戦いは、天正10年(1580)年6月13日、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、明智光秀を打ち破りました。明智光秀は、11日前の6月2日、京都・本能寺に滞在中の主君の織田信長を襲撃して自殺させています。記録によれば、現在の時刻では午後4時から始まった戦いは、2時間で明智軍の敗北で終わっています。参加兵力は、明智軍が1万6千、羽柴軍が3万6千といわれています。

なぜ、光秀が信長を襲撃したかは、いまだに謎です。もし、光秀が信長に代わって、天下を取ろうとしたならば、光秀の天下は『11日』で終わったのです。

◆わずか半日、関が原の戦い

関が原の戦いも、両軍で20万近い大軍が参加したわりには、きわめて短時間で終わりました。記録によれば午前10時に始まり、午後2時には東軍の勝利で終わっています。(時刻は作者の推測です)
つまり、『半日』の戦いでした。

◆官兵衛、驚く

『わずか半日で終わった』という報せに驚いた人物が、1人います。誰あろう、秀吉の軍師であった黒田官兵衛孝高(以下、官兵衛、如水と記述)です。関が原の戦いの20年前、官兵衛は、秀吉の備中松山城攻撃の陣中にいました。しかも、秀吉が本能寺の変の報せを受け取ったときは、軍師ですから秀吉の側にいたのです。
この時、官兵衛は秀吉にこう言ったと伝えられています。
「殿、いよいよ天下を握れる時ですな」
これを聞いた時から、秀吉は官兵衛に警戒心を持ち始め、不信感を抱いていきます。権力者は、自分の心を他人には知られたくないのです。