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ピアノ練習を気楽に続けるための考え方

なかなか上達しない!と感じたら

ピアノを弾くということは、いくつかのことの組み合わせです。
「目で楽譜を見る→脳が理解したことを指に伝える」というような『順序』を考えないで言うと、楽譜を見ながら頭で考え、指を動かして、耳で音を聴いて、足でペダルを踏み…というように、同時進行で実に多くのことをしています。

その上ピアノは多くの場合、右手と左手がまったく異なった音を弾き、違う動きをし、さらに同時に弾く音が複数ある。
ピアノを弾いたことのない人の前で楽譜を開き、実際に弾いてみると、自分がものすごいことをしている人のように褒めてくれます。
「なんでそんなことができるの?すご〜い!」というように。

ところで私は、ピアノを弾くことを、一度にいろいろなことをする、と考えるのではなく要は組み合わせだな、と思ったことがありました。ずっと以前ね。
楽譜を見ることと、指を動かすことと、音を聴くこと。この3つの組み合わせが、初期の段階。

そこに、どう音を出すかを考えるだとか、発想用語もきちんと理解して弾くだとか、どう表現するかをイメージするだとか、そういうことが加わったのが次の段階。
ちょっと乱暴なまとめかただけれど。

そして、たとえばピアニストが、「このホールでこのピアノで、これだけの聴衆がいるのなら、どのくらいの音量を出せばいいか」というようなことを考えるのは、もっともっと進んだ段階。

幼児期には洋服のボタンをかけるのに恐ろしく時間がかかって、しかも、それしかできなかった。
でも今ではさっさと、しかも片手でボタンをかけることもでき、空いているほうの手で受話器を持つこともできる。
そういうことと、なんとなく同じなのではないかと。

同時進行できるということは、そのいくつかの組み合わせの中で、
無意識でできることがあるということです。

たとえば前述の『ボタンをかける』ということは、「服のボタンをかける」という意識は働いていても、かけること自体に意識が集中するわけではない。
そしてまた、空いているほうの手で受話器を持つことに意識を集中しているわけでもなく、『電話がかかってきたらから受話器を取る』という無意識の行動が、ボタンをかけているという無意識の行動と組み合わさっただけのこと。

その状態で意識が集中していることは、『電話の相手と話をする』ことだけということになりますね。
人は、無意識の行動がとっても多いものなのです。

スーパーへ行くと、カゴを持ちます。
雨が降ると傘をさします。
寒いときは、何か羽織ろうとします。
これらは、ある意味無意識の行動です。

ピアノも、習い始めの頃には座る位置、姿勢、手指の形から意識しなければならず、次の段階では指の番号、音など、すべてについて一呼吸、考える時間が必要だったはず。
しかし、いつの間にか音が読めていたり、すっと手が動くようになっていたりする。無意識の行動が、一つずつ増えていったということです。

無意識の行動が増えれば増えるだけ、意識できるものも増えていきます。
無意識の行動が増えた分、時間や意識を苦手なところや初めて目にするものなどに向けることができるからです。
人が常に注意を払えることがらなど非常に限られていますから、一度に100も200もの何かに注意が向けられるはずもなく、言ってみれば、自分のキャパ以上のことに意識を集中することはできないのです。

無意識の行動が次第に増え、人は前進します。
そこに、まだ意識的に考えなければならない、いくつかのことがらを組み合わせる。
これが、日常生活だと感じています。

しかし、ピアノを弾くということは、日常生活というわけではありません。
呼吸をするという行動を意識せずにできるのは、それが日常生活に欠かせないものであり、切っても切れないものだから。
でもピアノは…全国民が弾くことを義務付けられたことでもなく、1日のうちの一部の時間だけしか割かない。
繰り返すという行為のもとに無意識の行動が増えるのだとしたら、ピアノについて、それが格段に増えることは望めません。

そう考えると、少し気が楽になったりしませんか?
毎日少しずつ、無意識の行動を増やしていく。しかし、1日1つ増えていくことなどあり得ません。
ピアニストでさえ、1日中練習をしても、さらなる探求を続けているのですから。

無意識の行動を少しずつ増やし、それに意識的行動のいくつかを組み合わせる。ピアノを弾くというのも、そういうことなのです。
その組み合わせの種類は無限にあり、得意な組み合わせと苦手な組み合わせがある。それだけのことです。

一度にいくつものことができないと、悩む気持ちはどなたにもおありだと思います。
でもそれは、そんなに気に病むことではありません。
ご自分の中では納得がいかないかもしれませんが、決して深く悩んだり、あきらめてしまったりなさいませんように。