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「命を粗末にしてはいけない」という言葉は心に響くか

「死にたい」の裏側には「生きたい」という気持ちが

「自殺なんて一度たりとも考えたことがない」という人にはピンとこないかもしれませんが、この世には、『生きて存在すること』にまったく意味を見出せず、苦しみぬいた挙げ句に、プツンと糸が切れたように死んでしまう人がたくさんいます。
それは「弱いから」でもなく、「自堕落だから」でもない。生きていることが、苦しいから。
言い換えれば、誰にも愛されず必要ともされず、一番身近な人間からも見放されて、心の拠り所をなくしてしまった人間の『ついに力尽きた姿』なのです。

かといって、「死にたい」と口にする人が、右手にロープ、左手にカミソリを持って、今すぐ本気で死ぬつもりで言っているか―といえば、必ずしもそうではありません。
「死にたい」という言葉は、一つの表現句。
つもりつもった苦しみや、行き場のない思いを「死にたい」という言葉に託して語っているケースが大半ではないかと思います。
人が「死にたい」という時、それは「死ぬほどの苦しみをわかって下さい」というSOSであると同時に、明日を生き抜く力を求めている瞬間でもあるのです。

だから子どもに限らず、大人でも、誰かが「死にたい」と言ってきたら、「そうか」とまずは受けとめてあげて下さい。
驚かないで下さい。
逃げないで下さい。
茶化さないで下さい。

「死の願望」は「生きたい」という気持ちでもあります。
人がそれを口にする時、「死ぬ方法」ではなく、「明日を生きぬく力」を探しているのだということを、まずは理解してあげて下さい。

次に、その人が勇気をもって打ち明たことを褒めてあげて下さい。
「打ち明けてくれて、ありがとう。とても勇気がいったでしょう」
「よく言葉にして言ってくれた。本当にありがとう」

なぜかと言えば、それを人に告白するのは、大変勇気がいるからです。
ネットの掲示板のように、どこの誰かもわからない匿名で告白するのと違い、現実の人間関係においてそれを口にするには、打ち明ける方も多大なリスクを覚悟しなければなりません。
もしかしたら、笑われ、軽蔑されるかもしれない。
親友だと思っていた相手に、冷たく突き放されるかもしれない。
その為に、今以上に絶望的な気持ちになるかもしれないのです。

にもかかわらず、あなたという人を選んで、打ち明けてくれた。
その勇気にまずはエールを送ってあげてほしいと思います。それは、その人にまだまだ「問題を解決する能力がある」という証だからです。
今、死ぬほど苦しんでいるにもかかわらず、死にたい気持ちをカミングアウトできたその強さにこそ、まわりは希望をもつべきだと思います。

それから後は、ひたすら聞き役に徹すること。間違っても、説教しないこと。
たとえば…

「命を粗末にしたらダメだ。頑張って生きないと」
   ↓
命を粗末にしたのは、本人ではありません。その人を粗末に扱ってきた人間がいるから、本人も粗末なもののように思い込むのです。
がんばって生きられるのなら、誰も「死にたい」などと思いません。がんばり続けて、今にも力尽きそうだから「死にたい」と思うのです。

「この世には生きたくても生きられない人がいっぱいいるんだぞ」
   ↓
『肉体の死』も『心の死』も重さは同じだと思います。
死ぬほど苦しんでいる人は、心がすでに死にかかっています。「心で生きたくても生きられない人」にも苦しみを叫ぶ権利はあります。

「みんな辛くても頑張って生きているのに。甘えるんじゃない」
   ↓
努力するにはある程度、心の健やかさが必要です。上記の言葉は、40度の高熱を出している人に「お前もこの山道を登れ、みんな努力して歩いているじゃないか」と言っているのも同じです。
「死にたい」と思っている人の心は、高熱で死にかかっている病人と同じです。まずは熱を下げて、健康な状態に戻すのが先決です。

たしかに、相手の話を聞いていると「この人にも非があるのではないか」と思うようなことがあるかもしれません。
そういう時、「その考え方はおかしいんじゃない。もっと気持ちを明るく持たないと」なんて、説教したくなることもあるでしょう。
でも、それは言ったらダメなんだと思います。